ドナルド・キーン講演会

 下田市にある上原近代美術館の開館15周年記念として、ドナルド・キーンさんの講演会があったので、出かけてみた。

 御年、93歳のキーンさんは、30分ほどの講演だったが、誠実な人だと感心した。
「 下田と私、そして美術 」という演題のために、原稿をしたため、それを、読んでいくという形で講演は進んだ。
 自分としては、演題から外れても、いま、キーンさんが興味のあることを自由に語ってくれればよいと思っていたが、紹介してくれた方の顔を立ててか、そこから外れることはなかった。
 
 子供のころに行ったニューヨークの美術館の話で、エジプト美術のエリアでミイラに出会って、以来エジプト美術に興味が持てなくなったこと、コロンビア大からイギリス、ケンブリッジ大に赴任し、市民向けに日本文化の講演会を開いたら、250人の会場に10人しか集まらず、うち3人は、下宿先の大谷さんと関係者で、このあと、「もう日本の学問はやめて、ロシア語を学ぼう」と思ったが、自分の頭は、ロシア語に向いていなくて、ちっとも覚えることができまかったことなど、を披露し、笑いを誘い、場を和ませることも忘れなかった。

 キーンさんは、日本語を学ぶために、海軍に入隊し、第2次世界大戦にも日本語通訳として従軍し、日本の兵隊たちの残した日記の翻訳、整理を行い、情報をあげていた。極限に状況で、日本の兵士たちが書いたものは、キーンさんの心の中に大きく残ったそうだ。彼らを、日本の最初の親友と呼んでいらっしゃった。
 上海で終戦を迎えたとき、陶磁器の収集家でもあった日本人の知り合いから、日本に持っていけないからと陶磁器を一つ選んでもらった。それから、陶器への興味が始まり、戦後日本への留学、各界の人々との交流のなかで、三島由紀夫と懇意になり、普段家族と団らんすること少ない三島さんが、夏だけは、家族と一緒にその下田のホテルに逗留していた彼をよく訪ねたとうことでした。
 これは、彼が自殺する年の夏まで続いたそうです。彼と会った最後の夏は、「何か違っていた。」と、語っていました。三島さんとは、「じくじくしたことは、語らない。」仲だったそうですが、その夏だけは、「何か心配があれば、言ってほしい。」と言ったが、「彼は、何も言わなかった。」そうです。
 三島さんの自殺で、「私は、友人を失い、日本は、世界に誇れる芸術家を失った。」それ以上、キーンさんは語りませんでした。

 次の下田とのかかわりは、陶器でした。
 池袋西武本店で開かれていた土屋典康さんの個展で、その作品に惹かれ、交流が始まり、毎年下田を訪れるようなったそうです。

 下田も、自分たちの知らない多くの交流の場になってるのだと知りました。