仏教のホトケたち−上原仏教美術館

さて、仏像、仏教とその信仰について
(これは、おもい・・・)

 まずは、たいしたことなかろうと思って、入ったことがなかった 上原仏教美術館 すみませんでした。
釈迦如来 阿弥陀如来 そのほかの如来 
弥勒 菩薩 観音 地蔵 明王 七福神 四天王 
十二天(この辺になると認識がかなり怪しい)
梵天 毘沙門 帝釈 吉祥 韋駄(まだわかる)
金剛力士(阿形)吽形 阿修羅 金毘羅 など天部、神将、善神、卷族(不明なもの多し)

古来、日本人に祭られてきた多くの仏とその従者。
なかには、帝釈天毘沙門天、金毘羅様など仏教を離れて(?)人々に慕われてきた皆様方が、一堂に会していらっしゃった。

 そして、名前は知っていても、姿を描けない方々をその由縁と一緒に拝見することができました。
姿かたちを知っておくことが、物事を知るうえで、とても重要なことだってことがよくわかりました。
不動尊を祀ってある、と聞いても、字づらでしか思い浮かばないのと、絵を描けるのでは、理解や親しみがまるで違います。

 さらに、小冊子によくまとまった、仏教のホトケたちを解説した「図像ハンドブック」も購入してきました。
写真は、上原仏教美術館のホームページからいただきました。ここをクリック





 半可通ですが、日本に伝わった仏教の歴史を書いてみます。
 紀元前5世紀ごろ、インドのシャカ族の王子、ゴータマ・シッダールタが会得した悟りは、5人のかって一緒に修行した者に説法されました。
 彼らは、その場で帰依し、ここから、仏教が教えとして、始まったと伝えられています。
サンガと呼ばれる、出家者集団が組織され、ここでブッダの死後もその教えは伝えられていきました。
スッパニタータ、などの「原始仏教」の経典も整備されました。
 しかし、万物は、流転するで、この原始仏教に変革が訪れます。
その中でも、2世紀ごろナーガールジュナ(竜樹)によって、確立された「空」の思想を体系化した教えは、中国を通して、日本の仏教に多くの影響を与えることになります。

 「改革派」は、自らを、大乗(大きな乗り物=衆人に悟りをもたらす)とし、批判された「旧守派」は、小乗(小さな乗り物=自分の悟りしか考えない人々)と蔑みの言葉で呼ばれることになります。
現在では、小乗仏教と呼ばず、上座部仏教と呼びます。こちらはスリランカミャンマー、東南アジアに拡がっていきます。

 大乗仏教は、新しい経典を独自に作り出すなどして、その時代と社会に合わせた思想を展開していきます。
そのなかで、バラモン教などの神々、インド、アーリアの風俗を取りれ、如来や菩薩、十二天梵天 毘沙門 帝釈・・・)などを釈尊を支え、守護するものとして創造していきます。
それら、新しいホトケたちに与えられた性格が、新たな功徳をもたらすものとして、信仰されていくます。
これが、仏教(大乗仏教)の伝わった各地でその土地々に合わせた信仰を得て、人々に広まっていきます。
 
 古代日本のヤマトでは、最新の技術と知識をもたらす大陸の人々の文化のひとつとして、もたらされれました。
その後、国家護持の権威のひとつとして扱われていきます。
かって、卑弥呼が行っていたとされるシャーマニズムの最新版として、衆人の耳目を集めたことでしょう。
そして、鑑真のような渡来の僧や大陸で研鑽を積んだ最澄空海らが、帰国し、体系的な仏教を作り上げていきました。
 これらの思想(教え・教義)が都の貴族にどう影響を与えたのか、まして民衆をどう感化したのかについての知識を待ち合わせていないんですが、国分寺の配置という形で仏教は国教とされていきます。
 その後 仏教界の影響力の増大 それを嫌う貴族の平安遷都 藤原摂関政治と荘園の拡大 それを守護する私兵=武士の台頭 源平の戦いと武家 平氏の「貴族」政治 東国武士の政権 鎌倉幕府の樹立 と続く、動乱の時代に仏教も変遷していきます。

  法然親鸞、一遍、日蓮栄西道元たちによって、人々の新たな「救済」が説かれていきます。
・・・長くなるので、次の機会に、持ち越します・・・