日本人の美学「わび」は、「詫びる」からきている?

 4月17日にNHK−BSで、美の壺「ほころびを愛(め)でる 金継ぎ」を見て思ったこと。
「金継ぎ」は、割れた器の破片を漆で接着して直す日本古来の修復技術。
ここに、物を大切に扱う日本の心があると紹介し、ゲストの武者小路千家の家元後つぎ・千宗屋さんが、「壊れてしまった器に詫びる気持ち。これは、自然に詫びることにもつながり、『わび』の心もここから来ている。」といったコメントをしていました。

 そうだろうか? 
「わび」は、千利休茶の湯から概念化されてきたと思っています。それは、狩野派の屏風絵などの新興武家社会の勢いそのままの絢爛さを持つ美意識に対極にあるものとして提示されたものじゃないだろうか。
 茶の湯の舞台は、質素で小さな部屋。畳と屏風絵などのない襖と障子。一輪の花。静寂のなか、黒い茶碗で、たてたお茶を飲む。これは、花見や屏風絵の前での宴と比べ、なんとも「わびしい」ものです。しかし、そこに美や価値を見いだす。これが、「わび」の由縁ではないでしょうか。
 
 千家の方が「わび」という字ずらに引っぱられて、誤った言葉の出自を語るのはうまくないと思う。  
 
http://www4.nhk.or.jp/tsubo/x/2015-04-17/10/13501/