伊豆の古代製鉄展と図説 下田史

 下田ベイステージの4階で20日まで開かれていた「伊豆の古代製鉄展」に行ってきた。
伊豆では、平安時代から鎌倉時代にかけて鉄生産が盛んだったとのことで、ふいご(炉に空気を送り込んで、火力をあげるのに使う)の羽口(陶製の筒、管)などが展示されていた。

 ちょうど、前橋、高崎周辺の古墳時代についての本を「「東国から読み解く古墳時代」(若狭徹 著)を読んでいた。それによると、
その地域の首長は、馬の飼育、調教、製鉄、治水による水田開発などの渡来の新技術により、大きな力を持ち、ヤマト王権から東本州における重要なパートナーとして、扱われていた。
東本州最大級の古墳や古墳群は、その証であり、その時代の人々の生活は・・・と続いていくのだが、それは、また、として、

 そこで、古代の製鉄の重要性が解説されていたので、「伊豆の古代製鉄展」は、タイミングが良かった。

 行ってみて、そこに置かれていた「図説 下田史」を手に取って、古代の解説を読んでみると、
浅学以前の自分が言うのもおこがましいが、時代の概説と下田・賀茂・伊豆の文化の位置づけがしっかりとかつ簡潔に記されていて、惹きつけられてしまった。
 1020円の安さで、即購入。下田の学校で教材に使っているかどうかわからないが、みんな読むべき本だと思った。
 無断で、1ページあげさせてもらうが、この図1枚知ってるだけで、地域の理解がまるで違うはず。

 網野善彦さんが、「海と列島の中世」などで、海を通じた文物の交流、通商が書かれているが、その論証の一つとして、海部、海夫の職名、地名をあげている。その範囲は、北九州から佐渡、茨城にまで及んでいる。ヤマトから黒潮に乗って進めば、伊豆、伊豆七島は、その通過、中継点にあたる。陸の道と異なる海の道を利用した祖先たちが、持ち込んだ文化が、伊豆にはあったのではないかと考えている。

海の神をまつる三島=白浜神社の縁起についても、もう少し、勉強していきたい。

 上げさせてもらった図は、奈良時代の行政区だが、
賀茂郡は、伊豆の南東部と伊豆諸島。
南西部は、那賀郡(那賀川に名前が残っている)
北部は、沼津、三島まで、田方郡
三島も、もともと白浜にあった三島神社が、遷宮して三島の地名ができたからこのころは、別の地名と思われる。
 この図だけでも、下田、賀茂の海洋を通した活動の広さがわかる。